別に面識があったわけでも何でもないが、ワンフェスガイドの表紙と言えばこの方だったので、ちょっとショックだ。
もっとも(読売)新聞の訃報を読んで、喪主がだんな様で女性であることを初めて知ったこともショックではあるが。
ネットでワンフェスレポの画像がアップされると、必ず1枚目の画像はこの方の描いたワンダとリセットの看板だ。もう当たり前の風景である。それがもうこれからは多分違う方のイラストになるのかと思うとやっぱりちょっと寂しい。
SOY-YA!!を始める以前、ワンフェス会場でワンダとリセットのボトルキャップフィギュアが欲しくて並んだなあ。
水玉先生。お疲れ様でした。合掌(-人-)。
大体なんでワンフェス=海洋堂なんかと繋がりがあったのだろう。
あそこは、いろんな人とコネクションがある。
出渕裕監督とか永野護先生とか。もっとも人間(企業)関係が長続きしない面もあって、ほとんどが仲違いして関係が終わってしまう。かつての食玩ブームの時がそうだ。
実は・・・。こういうのカミングアウトっていうの?
27年ほど前、まだ海洋堂が渋谷道玄坂の上と下に店を構えている時、私はあそこの社員だった。社員といっても売り場スタッフだったわけだが。
とっくに休刊してしまったが、昔出ていた「ホビージャパンEX」1992年夏号(表紙にシルバーでスプレーされたガレージキットが並んでるやつ)に宮脇専務や永野護先生(と奥様)と一緒に私が写った写真が掲載されている。今は押し入れの奥にあるので引っ張り出すことは出来ないが、これが結構私のお宝だったりする。
もっとも・・・。どうせ海洋堂関係者がこんなブログを読んでるわけがないから書いてしまうが。
あの専務と館長の強烈な個性についていけず、半年で辞めてしまった。
強烈な個性・・・。いやコンプレックスだ。
今でこそテレビで特集されるほどの知名度だが、当時はまだガレージキット屋なんか世間には奇異の目でしか見られていなかったため、そういう目で見る連中や商売敵(B社とか)を凄く敵対視していた気がする。
そしてとにかくだらしない。
海外から実に様々なSF映画のプロップとかを借りてきて展示とかするんだけど。改装時にその辺にブン投げてある。「エイリアン2」でシガニー・ウィーバーが着用したTシャツがゴミと一緒に放置してあった時は、思わず持って帰ろうかと思ったくらいだ。あれらのプロップはちゃんと返却されたのだろうか?
大事な借り物を無くしてトラブルになることもあった。
当時は本当にたくさんの業界関係者が店に仕事(遊び?)に来ていて。
先に挙げた出渕裕監督や永野護先生(と奥様)。岡田斗司夫さん他ゼネプロ(ガイナックス)の方々(当時は「王立宇宙軍」公開直後だった)。伝説のプロモデラー小田雅弘さんとか、ゆうきまさみさんとか他にもいっぱい来てたなあ。
その年の夏は1ヶ月ほど、工場を改装したサ○ィアンみたいな大阪の本社に連れて行かれて、フジテレビ主催の夢工場のアトラクションのセットを作ったり、小田雅弘原型の1/35〈レッドミラージュ〉のアシスタントをしたりした。キツかったけど結構楽しい思い出だ。深夜にトイレに行く時、実物大の大魔神の側を通る時は怖かった。
当時のボーメさんとか寺岡さんとかまだ現役でがんばってますね。松村しのぶ先生や木下(隆志)さんは、ちょうど私が辞める頃と前後して登場する。
こうして海洋堂はその後もイジイジと営業を続け、あのチョコエッグをきっかけとした一大食玩ブームを作って、やっと世間に認知されるわけである。うん!! よかったね!! 本当によかったね!!
水玉螢之丞さんから思いっきり話が逸れた。
水玉せんせ。これからも天国でかわいいイラストいっぱい描いて下さいませ。m(_ _)m
興味深いお話でしたw
強烈な個性というあたり、実際に近くで長い期間を過ごさないと絶対に見えないところですね。
P.S.今日は残念でした(^_^;)
また次回お誘いしますので、その折は宜しくお願いしますm(__)m
すいませんでした。(´・ω・`)
首都圏は大して強風でもなかったし、電車も(ほとんど)止まりませんでした。(´・ω・`)
首都圏(特に千葉県方面)のJRや地下鉄は荒天や地震で一度止まっちゃうとホントに動かないもんで。-_-#
これに懲りず、また機会がありましたら是非お声をお掛け下さいませ。
m(_ _)m